家族や家庭は、そりゃ大事だが。~2012年・憲法記念日に思ったりしたこと~
今日(5月3日)は憲法記念日でした。
若い世代の中には、「建国記念の日と、憲法記念日の区別がつかない」という人がいるらしくて、私はガクッとなったんですが、いや私だってそう詳しいわけじゃないが、でも、「建国記念の日」と「憲法記念日」って、どっちかというと真逆の性質のものじゃないの?(汗)程度のことは思う。
で、改憲派か護憲派かどっちかだったかは忘れましたが――いやそれ、どっちかは大問題だろ……ん、改憲派だったと思う――「憲法に、『家族や家庭は、社会の最小単位である、だから尊重しろ』という文言を入れろ」という動きがあるとか。
これには賛同しかねるな。
「家族や家庭は、社会の最小単位である」と思う人がいるのはまあ構わないと思うけど、別に憲法にまで盛り込まなくていいじゃないか。 既に教科書なんかには「家族や家庭は、社会の最小単位である」と書かれてるんだし、これ以上強調しなくたっていいだろうに。
何でそう思うのかというと。
子供が読まされる本の中には、『家なき子』とか『小公女』とか『小公子』とか、とにかく「親のいない子が、苦労の末、幸せを掴む」というパターンのものがいくつかありますが。
私は自分の子供時代に、教科書に「家族や家庭は、社会の最小単位である」と書かれていながら、一方で『家なき子』とか『小公女』とか『小公子』とかが推薦図書のように扱われているのが、不思議で仕方なかった。
「家族や家庭は、社会の最小単位」なんだとしたら、孤児であるレミやセーラやセドリックは、その「最小単位」としてすら、認めてもらえないということ? その、「最小単位ですらない子」をお手本にしろ、ということ? はたまた、「自分はこんな可哀想な子じゃなくて、ああ良かった」と思って、今の自分の境遇に感謝しろ、ということ?
――としか、思えなかったから。
で、そんな風に考えていたことは、その後しばらく忘れてたんですが……去年の3.11後、また思い出さざるを得なくなりました。 たくさんの「震災孤児」が生じたからです。
あの子たちが、「家族や家庭は、社会の最小単位である」という文言を聞いたら、安心するか、不安に思うか? ――といえば、不安に思うでしょう。 自分には、「家族や家庭」がなくなってしまったんだから。
3.11後、養子を迎えることに関心を持つ大人が増えたそうで、実際、3.11をきっかけに養子を迎えた家庭もあるそうで、そのこと自体は頼もしいことだと思うんですが。 だからと言って、震災孤児を含め、この国の孤児が全員、すぐに「家庭や家族」を与えられるわけじゃないのも、残念ながら確か。
どんなに美しく崇高なフレーズでも、今不安な状態にある者たちをもっと不安にさせるようなものなら、今より高い場所に掲げられてはならないと思う。
別にいいじゃないですか、「家庭や家族は大事」ということを、わざわざ憲法に盛り込まなくなって。 家庭や家族を大事にしたいなら、して欲しいなら、他にいくらでも、方法はありますよ。
それに、憲法に「家庭や家族は大事です」みたいな、「誰でもわかってるのに何でわざわざ?」みたいなフレーズが盛り込まれたが最後、理想や理念とは一見真逆の、ものすごくプラクティカルな方向へ、物事が動きそうな気もするんですよね……例えば、 「男女は、結婚に当たっては、国に申請し、許可を得てからにすること」 とか、 「国の許可なく子供を作った男女には、罰金を払わせることとする。 しかし、生まれた子供が国の役に立つ人材になりそうなら、その時点で、罰金は返すこともある」 みたいな。
「ひええ」と言いそうになりますけど、突き詰めていけば、こうなると思うんですよ……いや、突き詰めなくとも、意外と、最初の一歩がこれかも知れないが。
だから、繰り返しになりますが、「家庭や家族は大事」ということを、わざわざ憲法に盛り込まなくなっていいじゃないですか。
家庭や家族を大事にしたいなら、して欲しいなら……やらなきゃいけないこと、やったほうがいいことは、他にいっぱいあるでしょう。 それが何かというなら……「○○の予防」とか「なぜ××は起きるのか」とか「その××から身を守るための教育」とか「若者や子供にはもちろん、大人にも正確な知識を伝えるための△△△」とか「女性にとって本当に満足できる□□のあり方とは」とか、一見あんまり関係なさそうなことですかね……って、こんな伏字だらけでわかるか!って感じですけど、一つ一つ語り出すとまたものすごく長くなりそうなので、このあたりで締めるとします。(け、決して打つのが面倒になったわけじゃありません(汗)。)
- 関連記事
-
|