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『伊達政宗の手紙』の感想。(その3)~14人の子供たちのこと~

伊達政宗の手紙 (洋泉社MC新書)』の感想の続きです。

この記事では、政宗の14人(!)の子供たちに関することを中心に書こうと思います。
(長女の五郎八姫と次女の牟宇姫については「その2」でも書きましたが、この記事では、この2人以外の子供たちのことについていろいろ書いてます。

++++++++++++++++++++++++++++++
この本の121ページには、

<伊達政宗は十男四女の子福ものであった。>

と書かれています。
しかし、同じ121ページには、政宗のことを

<長女五郎八姫の離婚や六人の子どもに先立たれるなど、人の子の親としての悲哀も味わっている。>

とも書いています。

++++++++++++++++++++++++++++++
それで、14人の子供たちの生まれた年と亡くなった年を、(私の個人的な情報収集能力で(汗))時系列でまとめてみました。

注意点:
政宗が生きている間のことは、政宗自身のおおよその年齢も添えています

政宗より先に亡くなった子供についても、これもおおよその享年も計算して、書いてます

三女のことは「某姫」としか書かれていない本も多いんですが、「某姫」では味気ないので、「岑姫」だという説をここでは採用してます

・「新造の方の父は、もと秋田県本荘の城主・六郷伊賀守である
飯坂宗康の娘は、飯坂の局と呼ばれる女性である
秀宗の母と宗清の母は別人である。宗清の母が早くに亡くなったので、秀宗の母が宗清を引き取って、自分の息子として、秀宗と同様に育てた
など、このあたりは諸説あるらしいのですが、ここでは「新造の方の父は飯坂宗康である」という説を採りました……うー、何でこんな重要なことが未だに曖昧なままなんだよ、信じられん(涙)

++++++++++++++++++++++++++++++
・1591年………秀宗(長男)、生まれる(政宗25歳。母は新造の方。母の父は飯坂宗康)

・1594年………五郎八姫(長女)、生まれる(政宗28歳。母は愛姫。母の父は田村清顕)

・1599年………忠宗(次男)、生まれる(政宗33歳。母は愛姫。母の父は田村清顕)

・1600年………宗清(三男)、生まれる(政宗34歳。母は新造の方。母の父は飯坂宗康。祖父の宗康のもとへ養子に行く)

・1602年………宗泰(四男)、生まれる(政宗36歳。母は塙氏。母の父は塙直之)

・1603年………宗綱(五男)、生まれる(政宗37歳。母は愛姫。母の父は田村清顕)
           宗信(六男)、生まれる(政宗37歳。母は阿山方。母の父は柴田宗義)

・1607年………宗高(七男)、生まれる(政宗41歳。母は阿山方。母の父は柴田宗義)

・1608年………牟宇姫(次女)、生まれる(政宗42歳。母は阿山方。母の父は柴田宗義)

・1609年?……竹松丸(八男)、生まれる(政宗43歳。母は愛姫。母の父は田村清顕)

・1613年………宗実(九男)、生まれる(政宗47歳。母は弘子姫。母の父は芝多常弘。のちに、政宗の従弟の成実のもとへ養子に行く)

・1615年?……竹松丸(八男)、死去(6歳くらい)(政宗49歳)

・1616年………姫(三女)、生まれる(政宗50歳。母は勝女姫。母の父は多田吉広)

・1618年………宗綱(五男)、死去(15歳くらい)(政宗52歳)

・1621年………宗勝(十男)、生まれる(政宗55歳くらい。母は勝女姫。母の父は多田吉広)

・1626年………千菊姫(四女)、生まれる(政宗60歳。母は妙伴。母の父は村上正重)
           宗高(七男)、死去(19歳くらい)(政宗60歳)

・1627年………宗信(六男)、死去(24歳くらい)(政宗61歳)

・1634年………宗清(三男)、死去(34歳くらい)(政宗68歳)

・1635年………姫(三女)、死去(19歳くらい)(政宗69歳)

1636年……政宗死去

・1638年………宗泰(四男)、死去
・1655年………千菊姫(四女)、死去
・1658年………忠宗(次男)、死去
           秀宗(長男)、死去
・1661年………五郎八姫(長女)、死去
・1665年………宗実(九男)、死去
・1678年………宗勝(十男)、死去
・1683年………牟宇姫(次女)、死去

この後は、また長くなったので(汗)、たたみます……ここまでだけでも充分長いがな(汗)。)

++++++++++++++++++++++++++++++



↑この表の通りだとすると、1615年に、政宗と愛姫との間に生まれた4人目の子である竹松丸が亡くなったらしいんですが……政宗にとってはこれが「子を亡くす」という初めての経験だったようです。
これは、正室との間に生まれた子が亡くなったという意味でも、まだ元服前の幼い子が亡くなったという意味でも、つらい出来事だったでしょうね。

しかも同じ年には、初代小十郎こと片倉景綱も、59歳で亡くなっています。
1615年といえば、大坂夏の陣が終わって、戦国の世が事実上決着し、政宗が仕える徳川幕府の支配が揺るぎないものになった年ではありましたが……政宗の胸中は、晴れがましいものとは程遠かったような気がします。

++++++++++++++++++++++++++++++
次に、正室の愛姫が産んだ4人の子のうち、上の2人である「五郎八姫、忠宗」について。

この『伊達政宗の手紙 (洋泉社MC新書)』の中では、「政宗63歳、忠宗31歳、忠宗の異母弟である宗泰28歳の頃と推定される頃に政宗が忠宗に当てた手紙のことを、

<この短い手紙には面倒みのよさで父の信頼厚い忠宗、父親ゆずりの酒好きで政宗に心配かける宗泰、母を慰める心優しい五郎八姫といった三人三様の表情が描かれていて興味深い。>(146ページ)

と解説しています。

「政宗、愛姫、五郎八姫、忠宗」の4人は、

愛姫は江戸幕府の人質として、基本的にずっと江戸にとどまる
政宗と忠宗は交代で江戸に参勤する
夫に離縁された五郎八姫はその後、江戸の母のもとに数年いたが、更にその後、父の所領である仙台に引き取られ、2年に1度か3年に1度くらいの頻度で仙台から江戸へ上り、娘を仙台に返してしまって寂しくなった母の愛姫を慰める(←このことについては「『伊達政宗の手紙』の感想。(その2)~長女の五郎八姫と、次女の牟宇姫のこと~」でも書きましたが)

というスタイルで暮らしていたらしいんですね。

この4人家族(←当事者たちにそういう感覚はなかったかも知れないけど)は、4人で1箇所に揃うということはなかったかも知れないけど、全くバラバラのままでもなく、自分以外の3人のうちの誰かしらとはそこそこの頻度で会えていたらしい……ということに、何だかほっとします。

++++++++++++++++++++++++++++++
また、この本では、政宗から九男の宗実への手紙についても解説されています。

宗実は政宗に似て狩りが好きだったそうなんですが、ある時、狩りで鹿を仕留め、その肢を政宗に届けたらしいんですね。
(※宗実の当時の名前はまだ喝食丸(かつしきまる)。)

その時の政宗の手紙は、

<「よくやった!見事、見事」そんな興奮した政宗の声が聞こえてくる。よほど嬉しかったのだろう。代筆でもいいから直ぐにその時の模様を知らせよとのべるあたり、親バカぶりも発揮している。>(156ページ)

みたいなものだったようです(笑)。

こんな感じで、宗実は、政宗にとってはかなりお気に入りの息子だったようなんですが、その宗実を、自分の従弟である成実に養嗣子として与えたということは、宗実と成実の両方への信頼の証だったのかな。

成実は2度結婚し、子供も何人か生まれたようなんですが、その子供たちは全員、まだ小さいうちに死んでしまったようです。
また成実は、2人の妻にも先立たれてしまったらしいので、政宗には、
せめて養子には、元気で丈夫な子を与えてやりたい
そして
宗実なら、大事な亘理伊達家の後継者が務まるはずだ
という思いがあったのかも。

ところで私は、宗実が成実のもとへ養子に行ったのって、いつのことだったのかな、まだ『喝食丸』の時だったのかな?と思ってたんですが……どうもそうではないらしい。
宗実が養子に行ったのは20歳くらいの時らしいので、いくら何でもこの年齢までには、元服は済ませていたはず。

「宗実」という名前からして、いかにも「政宗」「成実」の両方から1字ずつもらった、って感じがするんだけど……もしかしたら、政宗がゆくゆくは亘理の成実のところへやるかも知れないと早い段階から思っていたのか、それとも、成実が宗実の烏帽子親を務めたとか、そういうことだったのか、このあたり、どうなんだろう。

++++++++++++++++++++++++++++++
そして政宗は、1636年に亡くなりましたが……。

その後10年以上経って、1653年には正室の愛姫(陽徳院)が、1658年には長男の秀宗と次男の忠宗が、1659年には二代目小十郎こと片倉重長(重綱改め)が、1661年には長女の五郎八姫(天麟院)が、亡くなっています。
約8年の間に、「戦国武将である政宗」をよく知る妻や子供や家臣が、次々と亡くなったわけです。

この約8年間は、当時の伊達家の者や、伊達家に仕えていた者たちにとっては、あー、伊達家の戦国時代は、本当に終わりつつあるんだって感じがする8年間だったんじゃなかろうか……どうもそんな気がします。

例えて言うなら……『源氏物語』第1部から第2部へ移った後に読者が感じる、あの何とも言えない寂寥感に似たような心持ちがしたんじゃあるまいかと……駄目だ、頑張ってみたが、例えが下手すぎる(爆)。
でも、もうもとには戻せない、時代の移り変わりってものを感じたであろう、って意味では、どこか似てたんじゃなかろうかと、やっぱり思うんですよね……。


さて、この記事はとりあえず、このあたりで締め。
政宗の長男ながら、庶子扱いだった秀宗」のことや、政宗60歳の時の子である、四女の千菊姫」のことも、ちょっと書きたかったんですが、それはまた別の機会に、書けたら書こうと思います……(何だかこのフレーズで締めることが増えてないか最近(汗))。

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『伊達政宗の手紙』の感想。(その1)~「母親への手紙」編~戻る
『伊達政宗の手紙』の感想。(その2)~長女の五郎八姫と、次女の牟宇姫のこと~に戻る

『伊達政宗の手紙』の感想。(その4)~衆道関係(汗)の手紙~に進む
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