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『伊達政宗の手紙』の感想。(その2)~長女の五郎八姫と、次女の牟宇姫のこと~

伊達政宗の手紙 (洋泉社MC新書)』の感想の続きです。

政宗には4人の娘がいましたが、この本では、長女五郎八(いろは)姫(母は愛姫)と、次女牟宇(むう)姫(母は「阿山方」又は「柴田氏」とも呼ばれる)についてページが割かれているので、私も、この2人に絞って、感想を書いてみます。

(思ったより長くなったのでたたみます(汗)。)



政宗から見れば、五郎八姫は長女、牟宇姫は次女であるわけですが……この異母姉妹、13歳か14歳くらい離れた「年の差姉妹」だったんですね。
五郎八姫が生まれた後は10年間以上、政宗と妻たちの間に生まれたのは、男の子ばかり。

息子が大勢いるというのは安心材料ではあったんでしょうけど、政宗も、人の親としては、そろそろまた娘が欲しいな」「五郎八の後に生まれたのは男ばかりだし、その五郎八も嫁いじゃって、手元にはいないしなという思いがあったらしく、側室の1人が、女の子を産んだと知った時は大変な喜びようだったらしいです。
武家の当主なら、普通なら、男の子を産んだ妻にこそ「でかした」と言うものなんでしょうか、政宗はこの時ばかりは、でかした、よくぞ娘を産んだ!と喜んだんじゃあるまいか、って気がします(笑)。

のちに、牟宇姫も年頃になって、1619年、12歳で嫁に行くわけですが……嫁いだ相手は、伊達家の家臣の筆頭格である、石川氏の息子(宗敬)……メチャメチャご近所です(笑)。
牟宇は絶対、遠いところには嫁になんてやらーん!という政宗の意図が絶対働いていたはずだ(笑)。

牟宇姫も、石川家から見れば「主君の姫君が我が家に御降嫁なさった」扱いだったのかも知れませんが、牟宇姫は宗敬との間には3男2女をもうけ、夫婦仲は良かったようです。

で、牟宇姫が嫁に行った翌年に、政宗は、婚家から離縁されていた五郎八姫を、仙台に呼び寄せています……仙台城の横に、新しい屋敷を建ててまで。

離縁された後の五郎八姫は、江戸にいた母(愛姫)のもとに身を寄せていたわけですが、その頃仙台にいた政宗は愛姫に、「1日も早く、五郎八をこちらによこして欲しい」と、かなり強い調子で催促の手紙を送っていて、アンタどれだけ娘を手元に置きたいんですかと、今の感覚で読んでも、ちょっと苦笑してしまうほど(笑)。

まあ、五郎八姫が生まれたのは、まだまだ「戦国時代」のただ中でしたし(秀吉の朝鮮出兵の頃でした)、正室の愛姫が輿入れして15年目に初めて産んだ子が女だったということで、どうしても「あー、男じゃなかったか……」みたいな気持ちは政宗にも愛姫にも少しはあっただろうし、そののち五郎八姫は「家康の息子との結婚」などという、露骨な政略結婚をさせられましたし(まあ夫婦仲は良かったらしいですが)、結果的にそのせいで、22歳という若さで「出戻りの身」になってしまいましたし……政宗にしてみれば、「不憫で仕方がない」という思いが、五郎八姫に対しては、他の娘に対してより強かったのかも知れませんね。


五郎八姫と牟宇姫に関する出来事を、ここで簡単に整理。

・1594年……6月、五郎八姫、京都の聚楽屋敷で生まれる
・1599年……五郎八姫、松平忠輝(家康の六男)と婚約
・1606年……6月、五郎八姫、結婚を前にして、江戸から仙台に一時帰郷。翌7月には、父の政宗と共に、仙台城の楼上より城下を眺める
・1606年……12月、五郎八姫(13歳)、松平忠輝と江戸で結婚
・1608年……牟宇姫、仙台城で生まれる
・1613………五郎八姫、夫の忠輝の転封に伴い、越後高田(新潟県上越市)へ移る
・1614年……4月から7月まで、政宗、高田に赴き、高田城造営に当たる
・1616年……7月、忠輝、改易され、離縁された五郎八姫は、江戸にいる母(愛姫)のもとに身を寄せる
・1619年……牟宇姫(12歳)、石川宗敬と結婚
・1620年……5月、仙台の政宗、江戸の愛姫に「五郎八を早くこっちへよこせ」と手紙を送る。それを受けて五郎八姫は江戸を発ち、9月、仙台に着く

↑ほら、政宗サマってば、五郎八姫か牟宇姫か、最低限どっちか1人は手元に置きたくてしょうがなかったんだなって感じ、しません?(笑)

あー、話が前後するようですが……。
五郎八姫、結婚を前にして、江戸から仙台に一時帰郷。翌月には、父の政宗と共に、仙台城の楼上より城下を眺めるってのが何のことかといいますと……えーと、私の下手な要約より、本書からそのまま引用しますと、

<五郎八姫を迎えた仙台での政宗の歓待振りは大変なものであった。例えば、初めて仙台を訪れた娘のために、七月盂蘭盆中は城下の侍屋敷及び町屋敷に残らず灯籠を掛けさせ、城の楼上より二人で眺めたといわれる。新築なった仙台城とようやく姿形を整えつつあった城下町の景観を五郎八姫はどのような感慨で眺めたか。おそらく、父の思いやりを強く感じたに違いない。>(138ページ)

ということだったようです……これ、現代でも通用しそうな演出だと思いませんか?
今で言えばさしづめ、視界一面を、キャンドルの光で飾りつける」「たった1人の相手に見せたいがために、大掛かりな夜景をわざわざ創り上げるってところでしょうか。

政宗といえば「派手で目立つことが好きだった武将」として語られることが多いですけど、こんな、「派手」とはちょっと違う、「シック」とか「ロマンティック」とか形容したくなるような演出も、していた人だったんですね……(あれ、でも、当時の感覚でいえば、「城下町を灯籠で照らす」ってのも充分「派手」だったのか?(汗)急に自信がなくなってきた(汗))。


えー、冒頭で断った通り、この記事では、政宗の長女の五郎八姫と、次女の牟宇姫に絞って書きましたけど、他の子供たちについても、一つくらい、記事が書けるかな……書けたらいいんだけどな……甚だ心許ない(汗)。

(いや、この本、一般人向けにやさしく書かれているとは言え、それでもかなり「学術書」の色が濃い本なので、感想を書くにしても、あんまり軽いノリでは書けなくて(汗)。さあ、どうなりますか(汗))。

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『伊達政宗の手紙』の感想。(その1)~「母親への手紙」編~戻る

『伊達政宗の手紙』の感想。(その3)~14人の子供たちのこと~進む
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テーマ:戦国BASARA - ジャンル:アニメ・コミック


この記事に対するコメント

妄想ひどすぎ。
現代と当時は、感覚がまったく違います。

いろは姫が戻ってきたのも、その後再婚しなかったのも、全くあなたが書く様な平和ボケ思想ではありません。

あの時代、どうだったのか、ご理解してますか?
平和とは何なのか、わかりますか?
【2014/01/12 11:33】 URL | #-[ 編集]


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