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『NARUTO』に短歌はよく似合う。(その2)〜これやこの一期のいのち〜

これやこの 一期のいのち炎立ちせよとせまりし 吾妹よ吾妹
(これやこの いちごのいのち ほむらだち せよとせまりし わぎもよわぎも)


この記事は、「その1」の続編のようなものです。
(「その1」へのリンクは下のほうにあります。よろしければどうぞ。)

「その1」で私は、<それも多分、綱手のほうから求めるようにして。>などと妄想ネタを書きまくりましたが、この「その2」では、更に妄想を広げてみます。

この歌の背景は、「病に冒され、自分の死期を悟った女性が、夫に対して呼びかけている」というものです。
大意は……文芸評論家の山本健吉は、この歌を含む連作「妻の死」を、「これほど厳粛なものとして詠まれた男女の交合の歌は他にない」と評しています。
そこからどうかご賢察ください。
この歌も有名な歌なので、ご存知のお方はやっぱり多いはず。

この歌を見ると、「自来也が里を発つ前に綱手を酒の席に誘ったのがもし夜だったら、そして綱手が自来也の長年の想いに本気で応えようとしていたら、自来也はこんな風に思ったんじゃないか」と思わされるのです。

『NARUTO』の自来也と綱手の場合、「自分は今、死に近いところにいる」という自覚があったのは男のほうだったので、そのあたりはこの歌とは逆なんですが、「男女1組の中で、どちらか片方の『一期のいのち』を、双方が強く意識していた」って意味では、通じるものがあると思うのです。


ふと思ったのですが、「吾妹(わぎも)」とか「吾妹子(わぎもこ)」とかって、自来也が心の中で綱手を呼ぶ言葉として、ぴったりだと思う。
小説家でもあった自来也は、綱手のことを思いつつ、著作の中で、この言葉を使っていたかもな。


自来也の著作といえば「イチャイチャ」シリーズですが、もう新作が書かれることがなくなってしまったこのシリーズについて、新しく思ったことがあります。

去年のWJ38号の第366話「兄弟」で、自来也は「“暁”のリーダーの居場所をつかんだぞ」と綱手に告げ、綱手を驚かせました。
そして綱手は「何!? 本当か!」と色めき立ち、「詳しく話せ!」と急き立て、「まぁまぁ…そう焦るな」となだめようとする自来也を、更に「お前の小説の続編じゃあるまいし、ノンビリしてられるかァ!」と怒鳴りつけていました。

私はあそこで、どうやら綱手も「イチャイチャ」シリーズを読んでいるらしい、少なくとも刊行ペースを把握するくらいはしているらしいってことに、かなり驚いたのですよ(笑)。
だってあのシリーズって、カカシが読んでるシーンしか私は見たことなかったから、男性読者しかいないような気がしていたから……。


で、また突拍子もない例えですが……。

自来也が約16年間書き続けた「イチャイチャ」シリーズって、約27年間続いた「男はつらいよ」シリーズに通じるものを感じます。(はい、笑っていいですよ!(←ヤケ(笑)))

もう10年くらい前のことになるのでしょうか、「男はつらいよ」シリーズで主役の車寅次郎を演じ続けていた渥美清が亡くなった時、寅次郎の異母妹・諏訪さくらを演じていた倍賞千恵子は、「27年間かけて、1本の長―い映画を撮り終えたって気がする」と言っていたのです。
倍賞千恵子のこの言葉が、なぜかすごく印象深いものとして、私の頭には残っていたのですが……。

「イチャイチャ」シリーズには、自来也が綱手へ当てて間接的に書いた、長い長い、1通のラブレターだった、って側面もあったのかも知れませんね。
もしかしたら、「イチャイチャ」シリーズに先立って書かれていた、ミナトが絶賛していた『プレ・イチャパラ(仮)』までの作品にも、同様に。
これは、先週のWJ30号の第405話「遺されたもの」で、幼い日の自来也が、初対面の綱手に、「ラブレターは後でいいぜ」と言っているのを見て、新しく頭に浮かんだことなんですけどね。

あー、でも、「男はつらいよ」シリーズも、「主人公が、放浪の旅をする」「主人公が、ヒロイン(というかマドンナ)に毎回フラれる」というパターンの繰り返しだしな……自来也の人生と、そうそうかけ離れてるわけでもないのかな、もしかして?
まあ、寅さんの場合、「マドンナ」はたくさんいましたが、自来也にとっての本気の女性は、生涯通じてたった1人だったわけですけどね……(って、いつまで寅さんネタを引っ張るんだ>私(笑))。


自来也がペインとの戦いの果てに、意識が遠のく中で考えていた『うずまきナルト物語』とは、生前のミナトが絶賛していたような、「決してあきらめない主人公」が大活躍する物語だったんでしょうか。
原点帰りして、エロ要素は抜きの路線のもので。
いや、入っててもいいですけどね(笑)……私も読みたかった……(涙)。


原作者の岸本氏は、確か第2部に入る前、「登場人物たちの恋愛模様も描いていきたい」みたいなことを話していたと記憶しているのですが、「自来也と綱手」の恋愛模様がかなり重要なものとして描かれているのは確かだろうと思います。
まあ、恋愛模様を繰り広げていいのは1組だけとは限らないので、今後も別の誰かの恋愛模様は描かれるのでしょうが……今の原作には、頭の中に花が咲いているような状態での恋愛が入り込む余地はないような気がするんだよなあ……また誰かしらの「悔いの残る恋愛」が描かれるのか(涙)。

(WJ31号を読んで私は、「今後、シカマルがテマリとあんまり親しくなるようなことがあったら、一読者として自分はちょっと不安になるかも」と思ったのでした。)


(このシリーズの「その1」に、思いがけずたくさんの拍手をいただけて、ほっとしております。
こんな珍解釈シリーズを読んでくださり、また拍手やコメントを下さり、ありがとうございます!)


(2008年7月2日追記:「これやこの 一期のいのち炎立ちせよとせまりし 吾妹よ吾妹」というこの歌の作者は、吉野秀雄(よしの・ひでお)という歌人です。
『NARUTO』にコンバートするのに脳味噌を取られて、「オリジナルの歌の作者は誰なのか」という重要情報を書き漏らしていました(汗)。
まる2日間、本気で気づきませんでした、ひええ(汗汗)。)


『NARUTO』に短歌はよく似合う。(その1)〜あらざらむこの世のほかの思ひ出に〜に戻る

『NARUTO』に短歌はよく似合う。(その3)〜わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて〜に進む



テーマ:NARUTO - ジャンル:アニメ・コミック


『NARUTO』に短歌はよく似合う。(その1)〜あらざらむこの世のほかの思ひ出に〜

あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな
(あらざらん このよのほかの おもいでに いまひとたびの あうこともがな)


数ヶ月前から、「『NARUTO』のこのシーンって、あの短歌を思い出すな」とか、逆に「この短歌のシチュエーションって、『NARUTO』のあのエピソードに通じるな」とか思うことが増えてきたので、この「『NARUTO』に短歌はよく似合う」シリーズをスタートさせてみます。

この「あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」は、和泉式部(いずみしきぶ)の歌です。
大意は、
「私はまもなく死ぬだろう。あの世へ携えていく思い出として、もう一度だけでいい、あなたに逢いたい」
というようなものです。
百人一首にも選ばれている歌なので、ご存知のお方も多いはず。
(第1回目の題材としてこんな超メジャーな歌を選んでいいのか、「珍解釈」ぶりが必要以上に目立っても知らんぞ自分、と思いつつ、思いついちゃったものはしょうがないという開き直りと共に、書いてみます!)


この短歌が誰を思い起こさせるのかというと、
「雨隠れの里へ潜入するため木ノ葉の里を発つ前、綱手を酒の席に誘った自来也を、です。
(女性が詠んだ歌ですが、連想したのは男性キャラである自来也でした(笑)。例によってジェンダーフリーですこの漫画。)

あの回を読んだ時、私は実は、微かな違和感を覚えたのですよ。
その違和感は、突き詰めて考えてみたら、
「自来也はどうして、あと数時間待って、せめて夕方になってから、綱手を誘わなかったんだろう? ナルトたちは任務のためもう出発していたけど、自来也のほうは、別に一刻を争うような事態には見えなかったのに」とか、
「綱手は飲み過ぎて吐いてたが、自来也だって、吐くほどじゃないにしろ飲酒してるんだから、すぐに戦闘態勢に入れるような状態じゃなかっただろうに、何で次の朝まで、せめて夜半過ぎまで、出立を遅らせなかったんだろう? そもそも、何で場所を移した上、酒が必要だったんだろう?」
とか、そういうものでした。


で、「自来也はどうして、あと数時間待って、せめて夕方になってから綱手を誘わなかったんだろう?」「何で次の朝まで、せめて夜半過ぎまで、出立を遅らせなかったんだろう?」ってことについて、最近になってふと頭に浮かんだのは……。
堂々と酒が飲めるような「夕方」「夜」の時間帯に突入していたら、自来也と綱手はその夜、正真正銘、「男女の仲」になっていたんじゃないか、ってことです。
それも多分、綱手のほうから求めるようにして。

そういうストーリーにならなかったのは、「少年誌だからそういうストーリー運びはまずい」ってことだけじゃなく、自来也が、それを避けたかったからだと思う。
何で避けたかったのかというと、思い当たる理由は二つ……(ここから妄想ギアが四速に入ります)。


一つめの理由は……ありきたりな言い方になりますが、自来也の「男としての意地」

綱手は、自来也が向かおうとしている土地が危険な場所だということは知っていました。
それに加えて、あの酒の席が夜だったら、「これが今生の別れになるかも知れない」「これだけ自分のために尽力し続けてくれた自来也を、このまま送り出していいのか」という思いも手伝って、若い頃からの自来也の気持ちに応えるような行動を、自分から見せていたんじゃないかと思えるのです。

でも自来也のほうは、男としては「綱手が自分の思いに応えてくれたとしても、それが死出の旅へと向かう自分への餞(はなむけ)代わりのようなものや、半ば『償い』『別離の前のけじめ、儀式』のようなものであるなら、そんな応えも餞もいらない」と思ったんじゃないでしょうか。
自来也が、酒の席を設けるのに昼の時間帯を選んだことも、「そん代わりワシが生きて帰ってきた時は…」と、本気の口説きのような言葉を言った直後に「ゲハハ 冗談だ冗談!」と笑いに紛らしていることも、「特別な餞などいらない」って気持ちがさせたものである気がします。


で、二つめの理由は……(少なからずぶっ飛んだ解釈かも知れませんが)……自来也の「綱手に対する、ささやかな復讐の気持ち」

綱手が「生きて帰って来い…」「お前にまで死なれたら…私は…」と不安そうに言っているのを、自来也は「泣いてくれるのか? 嬉しいーのォ」「でもダンの時ほどじゃねーだろーのォ ワハハ」と混ぜっ返し、綱手は「馬鹿が!」と怒ったように、また呆れたように言うしかなくなります。

ここで自来也がわざわざダンの名前を持ち出しているのは、自来也の中では、ダンに対する対抗意識みたいなものが、未だに完全には消えていないからでしょう。
自来也はずっと、異性としての綱手を見る時、その背後に、必ずダンの姿が見えてしまっていたんだと思います。
そして、ダンが生きていた頃もその死後も、綱手が長きにわたってその心をダンに捧げたままであったことを……やっぱり、完全に割り切ったり、受け入れたりはしていなかったんでしょうね。

綱手の記憶の中では、ダンは「幸せな記憶と、つらく無念な思いの両方を自分に残して死んでいった、永遠の恋人」だと思われますが……。
そのダンと同じくらいの重みのある存在、「永遠の存在」になるためには、自分も綱手にとって「心残りのまま死に別れてしまった」という存在になるしかない……ということは、たとえ漠然とであっても、自来也はずっと前から思っていたんじゃないか、って気がするのです。

つまり自来也は、
「綱手の気の済むようにさせるよりは、綱手の心の中に自分が望む形で残ることを優先させてくれ、たとえ綱手の心に悔いが残ることになっても」
「綱手のれっきとした恋人だった別の男には敵わないまでも、自分も男として、綱手の心に、ほんの少しの爪痕を残したい」
と思っていた、ということです。
「ささやかな復讐」とは、そういう意味です。

『NARUTO』って漫画は、登場人物たちの「可愛さ余って憎さ百倍」という気持ちの表れだとしか思えないような言動があっちこっちに見られる漫画だと思うのですが(異性間でも、同性同士でも)、「自来也から綱手への言動」も、例外じゃなかったのではないか、って気がします。
まあ「憎さ百倍」とまではもちろん行かなかったものの、前述した「ささやかな復讐」くらいの気持ちがあった可能性は、かなり高いと思うのです。

(読者としてはもちろん、「ほんの少しの爪痕」「ささやかな復讐」で済むわけねーだろーが!とは思うのですが、それはあくまで、下忍時代からのチームメイトだったこの2人、“三忍”のうちのこの2人、「火影と補佐役」としての自来也と綱手を見ることが多かった読者だからこそ、そう思うのでありまして。
作品世界中での自来也は、綱手に対する「男としての想い」のスイッチを切ることは、最初から最後まで、なかったと思うのです。)


付け足しのようですが、「何で場所を移した上、酒が必要だったんだろう?」ってことについては、やっぱり自来也は、火影の執務室で「五代目火影」と「その補佐役」として綱手と事務的に話をするんじゃなく、のちのち綱手が「最後の晩餐」として思い出せるような場を設けたかったからでしょう。
まさに「今ひとたびの逢ふこともがな」です。


豪傑でありながら、同時に献身の人でもあった自来也の、最初で最後の「ささやかな、しかし本気の復讐」は、望む形では報われないと知りながら生涯かけて愛したたった1人の女性へ向けられたものだった……そんな気がするのです。



(この「『NARUTO』に短歌はよく似合う」シリーズ、軽い気持ちで始めてしまいましたが、けっこう大変だったこの記事をまとめるの……「その2」以降のネタも、アウトラインだけなら二つ三つストックがあるのですが、果たして記事としてまとめられるのか私!?)


(2008年6月30日追記:とりあえず、「その2」はまとめられました。これ↓です。)

『NARUTO』に短歌はよく似合う。(その2)〜これやこの一期のいのち〜に進む



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祝7000回!

劇団四季の「キャッツ」の上演回数が、今日、通算7000回目を数えたそうで!

この「7000回目」のことは、夜9時台のNHKのニュースで知りました。
今までの観客動員数は710万人と言ってたかな?
私もその中にいます……5回か7回か、それくらい観に行ってるので。

何回観ても飽きないんですよね、このミュージカルって。
観に行くたびに、何かしら新しい発見があるのです。
「観るたび、新しい“キャッツ”です」って感じです。
(この「観るたび、新しい“キャッツ”です」って、何のパクリかわかりますか?(笑))


劇団四季のCDはこれ↓。

劇団四季ミュージカル「CATS」ロングラン・キャスト劇団四季ミュージカル「CATS」ロングラン・キャスト
(1989/02/08)
劇団四季

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原作となった本は、これ↓。
メロディができてから歌詞を乗せるミュージカルが多い中、この「キャッツ」って、歌詞のほうがずっと先にあったんですよね。
何だか不思議な気がします。

キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法 (ちくま文庫)キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法 (ちくま文庫)
(1995/12)
T.S. エリオットニコラス ベントリー

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ちょっと頑張って、英語版↓も聴いてみるか?

キャッツ ― オリジナル・ロンドン・キャストキャッツ ― オリジナル・ロンドン・キャスト
(1998/11/30)
アンドリュー・ロイド=ウェッバー

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ところで、この「劇団四季の“キャッツ”上演7000回目」のニュースの後はすぐに気象コーナーに切り替わったのですが、「毎回、気象予報士の平井信行キャスターは、舞台俳優並みに颯爽としていて絵になっている」と思うんですが、皆さんはどうお思いですか?(笑)




5000分の1か、10000分の1か。(←さて何の確率でしょうか?)

今日(6月26日)は下弦の月でした。

ちょっと前、越/智/静/香のブログを見たら、「6月はずっと京都で舞台の仕事」と書かれていたので、「今年の誕生日は、舞台の本番中に迎えるのかな?」と思ったら、まさに千秋楽(明日6月27日)が誕生日だそうで。
気分的に盛り上がるでしょうねえ、こういう誕生日って。
サラリーマンやサラリーウーマンに例えれば、仕事納めの日が誕生日であるようなものか。(ちょっと、いや、だいぶ違うか。)
それとも、ボーナス支給日が誕生日であるようなものか。(こっちのほうが近いかな?)

そして、その舞台の仕事のために越/智/静/香が京都に行く前の頃の記事を見たら、種から育てたアボカドがかなり大きくなったそうで、その写真が載っていました。
越/智/静/香はそのアボカドに名前をつけているそうで、その名前は、「アボカド」という音にちなんだらしく「ボガード」君というそうなのですが、「ボガード」と聞けばたいていの人が、ボギーこと「ハンフリー・ボガード」を連想しますよね。
そして、ボギーといえば、生涯の結婚回数は4回で、最後の妻は25歳年下の女優(ソフィア・ローレン)だったんですよね……いや、別に、無理やりつなげるつもりはないですよ(笑)。

(「ボガード」と聞いてすぐに「ハンフリー・ボガード」を思い浮かべるのは、一定の年齢以上の人間だけなのかもしかして、と思い当たり、ちょっとだけ冷や汗(笑)。)

ドサクサに紛れて、アボカドの本↓を載せてみます。
(アボカドって、種から育てると、観葉植物としては簡単に育てられても、実が収穫できるようにはなかなかならないそうですね。
5000花に一つとか10000花に一つくらいしか、結実しないんだとか……って、越/智/静/香の記事じゃなくて、アボカドの記事になっちゃった(笑)。)

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WJ30号『NARUTO』第405話「遺されたもの」の感想。

今週号を読んで(というか、日曜の段階で、ネット上で概要を知って)真っ先に思ったのは、

人気投票の締切日が6月23日だってのに、「あの人」が約3年ぶりに登場したのは、その6月23日発売のWJなのかああ!

ってことでした(笑)。

今週号の内容は、人気投票の結果にはどう反映されるかな?
(番外編として「締切り後に葉書が殺到したシーンのランキング」ってのが新設されれば、1位かも知れないな(笑)。)


さて本編の感想。

フカサクが着物を脱いで、背中に書かれた暗号をその場の一同に見せますが、綱手にはあれ、何のことか、ぼんやりわかったんじゃないのかな。
回想シーンでの自来也の「ラブレターは後でいいぜ」という言葉からして、綱手への個人的なメッセージが盛り込まれているような気がする。
暗号を見つめる綱手の顔のアップを見て、何となくそんなことを思いました。

フカサクは「…ここまでが自来也ちゃんの全てじゃ」と言って話を締めてますが、「全て」といっても、いったいどのあたりまで話したんだろう。
“予言の子”についてや、自来也が雨隠れの里に滞在していた頃のことは話したのかな?

うーん、「自来也死す」の知らせを受けてナルトが受けるであろうショックを思うと、「細かいことは、今話したところで頭に入らないだろう」と判断して、話さなかったんだろうな。
そのことを話すのと話さないのとでは、「自来也死す」という出来事の意味ってまるっきり違うものになるはずなんだけど。
それにナルトは、自来也が雨隠れの里に発つ前の、自来也と綱手の「最後の晩餐」で交わされた会話を知らないしなあ。

あー、自来也が残した暗号には、もしかしたら、ナルトへのメッセージも含まれているのかな?
そうであって欲しいな……今のナルトは、自来也のしたことを「無茶」だとしか思ってないみたいだし、ナルトが自来也の死を受け止めて乗り越えるには、第三者であるイルカ先生の慰めと励ましの言葉だけでは足りない気がする……(いやもちろん、イルカ先生の言葉は、自来也の死を乗り越えるための大きなきっかけにはなったでしょうけどね)。


先週から書いていますが、作品世界の中では、ほんの十数時間前に、ナルトはこの綱手の執務室で、自来也に会ってるんですよね。
その後、イタチの死を知らされたり、サスケの安否を気遣ったりと、予想外の展開にただでさえナーバスになっているところへ、思ってもいなかった悪い知らせを受けたんですからね……だから、「話が終わったかどうかも確かめず、捨て台詞みたいな言葉を吐いてその場を立ち去る」という、いつものナルトらしくない行動を取ってしまったのかもな……。
綱手も、ナルトの責めるような言葉や捨て台詞は受け止める覚悟で、ナルトをあの場に呼んだんでしょうけどね、ナルト、後で綱手には謝らなきゃ駄目だぞ。

それからナルト、天地橋の任務の時もそうだったけど、「サスケのことが絡むと冷静さを失う」って傾向は、もうちょっと改めないといけないと思う。
ナルトに「九尾の力には頼るな」と説教したのはヤマトでしたけど、「サスケのことが絡んでも冷静さを失うな」ってことも、カカシあたりにいちどビシッと言って欲しいなあ……あーでも、カカシ自身が、サスケのことが絡むとちょっと動揺気味だからなあ……誰を頼ればいいんだこのことは……。

カカシといえば、ナルトをたしなめたりフカサクに謝ったりしているカカシの姿を見て、悲しみに沈んでばかりいられない役回りの者のつらさを感じました。
カカシって意外と「何もする気が起きないほど打ちひしがれているときこそ、動け、働け」「つらいときこそ、笑顔を忘れるな」という考えの人なんですよね。
綱手がここのところ、「綱手様」でななく「五代目」と呼ばれることが多くなっていることや、カカシのこの働き振りからして、「カカシ、六代目火影に就任」の話が現実的になってくる伏線なのでしょうかこれは。


ナルトが自来也との思い出を回想しているコマが続いているページを見て知ったのですが、ナルトの第2部仕様の服を見立ててやったのって、自来也だったんですね。
着るものにはうるさい自来也のこと、あの服も、選びに選び抜いた結果のデザインだったのかもな。

街なかを歩いていたナルトはイルカ先生にばったり会い、「一楽」に誘われて断りますが、この時点ではイルカ先生って、自来也の死は知っていたのかな。
知っていたとも知らなかったとも、どっちにでも取れる言動や表情なんだよなあ。

ナルトのほうは、気分的に「一楽」って感じではなかっただけでなく、マジで食欲も失ってたんですね。
あの後、自分の部屋に帰ってから食べていたらしいカップラーメンすら、食べ残してますし。


そして再び外へ出て、夜になるまで当てもなく歩き回るナルト。
ベンチに座って泣くナルトですが、ここでのナルトの泣き顔って、ちょっと独特なんですよね。
いつものナルトなら、顔を歪めて泣くところを、顔の表情はまるで無表情のまま、涙だけが頬を伝っているのです。
「まさか、こんなに早く失うとは思っていなかった」という何かを失ったとき、人ってあんな風に泣くものなのか……そんなことを思わせる泣き顔でした。
(皆さんも、ナルトの頬のふた筋の涙を指で隠してみてください。
悲しみに打ちひしがれているとは思えないような、とりとめもない何かをちょっと考え込んでいるような、そんな感じの表情で前方を凝視しているナルトになるはずです。
私がやってみたらそうなりました。(←ド暇人))

ここで再びイルカ先生が現れます。
イルカ先生の言葉で、ナルトはちょっとだけ笑顔を見せますが、「乗り越える」「立ち直る」までには、まだまだ何もかもが足りない気がします。
ナルトのあの笑顔も、「イルカ先生にあんまり心配かけちゃいけない」って気持ちからきているものかも知れないし、他には、イルカ先生と話しているときに自然に顔に浮かぶ、いわば条件反射みたいなものかも知れないし。

でも、そうだとしても、あの状態のナルトに近づいて、自来也についてストレートに語れて、その言葉をナルトが素直に聞き入れることができるのは、やっぱりイルカ先生だけなんだろうな。
他の誰かだったら、WJ20号でサスケがマダラに言ったような、「うるせェ!! そんなことはもうどうだっていい!! オレの前から消えろ!!」みたいなことを、ナルトも言っていたかも知れないし。
現にナルトは、綱手に食って掛かってカカシにたしなめられた時、そのカカシのことは、一瞬ですが、睨み付けるような目で見てますし。
(ナルトが綱手に対して投げつけた捨て台詞も、「うるせェ!! そんなことはもうどうだっていい!! オレの前から消えろ!!」のナルトバージョンだったような気がします。
ここのところのナルトとサスケって、全く無関係のようでいて、実はけっこう似ている体験をしているんじゃないでしょうか。)

ちょっと盲点だったのですが、確か原作ではナルトは、イルカ先生と任務を共にしたことはないんですよね。
任務に絡んだやり切れなさは、任務には無関係な者とのほうが分かち合いやすいってときもあるのかな。

今更ですが、この前にイルカ先生が登場したのは、3年前のWJ15号「砂へ…!!」だったから、約3年3ヶ月ぶりか。
コミックスで言うと『NARUTO (巻ノ28)』以来です。
この巻、第2部が始まった巻だったんだな。
私はこのブログでは、イルカ先生のことは滅多に書いていないようなのですが、約1ヶ月前には「ハピバイルカ先生!」なんて記事を書いてるし、つい先週には「To be or to do? 」の中で、やっぱりイルカ先生のことに触れてました。
やっぱり中途半端にしか当たらないんだ私の書くことって……。


暗号解読の件について、サクラがシカマルに「シカマル お願い…」と縋るように言うのを見て思ったのですが、サクラは自来也の死を知って、下忍時代の師にもチームメイトにもみんな先立たれてしまった綱手のことを気遣うと同時に、「自分も、もし1人で残されるようなことになったら」ってことも、チラッと考えたんじゃないでしょうかね。
そして、「ナルトも、サスケ君も、カカシ先生も、私も生きている間に、ことを急がなくては」と思ったかも知れない。
綱手の弟子として医療忍術を学んでいるサクラは、ナルトやカカシとはまた別の意味で、「人の命の儚さ」ってものも知っているだろうし。


綱手は、執務室を出て、しばらく1人で廊下を歩き、立ち止まり、壁に寄りかかり、「バカヤロー……」と言って涙を流します。
この綱手を見て、エカテリーナ二世が、グリゴーリー・ポチョムキンの死の知らせを受けて衝撃を受けたシーンを思い出しました……(アンリ・トロワイヤの小説や池田理代子の漫画に、そういうシーンがあるのですよ)。
どんなに能力的に優秀でも、性格的に向いていても、頼れる側近や部下がいても、やっぱり女性がプライベート面での男性パートナーなしで大きな組織のトップを務め続けるのは、大変なことなんですよね……。

自来也を失った綱手がどんな行動に出るのか、気になります……前述したように、「六代目火影」選出を考えたりし始めるのか。
それとも、「大蛇丸死す」の知らせを受けた自来也がまるで「思い残すことはなくなった」とでも思っているような、死に急ぐような行動に出たように、綱手も「思い残すことはなくなった」みたいになるのだろうか……そうならないという保証はどこにもないからな……私としては、綱手にはまだまだ火影として頑張って欲しいけど……。
ただこの『NARUTO』って漫画は、ジェンダーフリーな反面、「男が先に死んで女が残される」って方針は崩さないようなので、綱手も「思い残すことはなくなった」とは思うかも知れませんが、死に急ぐようなことはないかな……。


火影という立場は、
「自分が先頭に立って、仲間や里を危険から守る」
ってことが求められるのと同時に、
「今生の別れを覚悟しつつ、仲間を危険な任務へ送り出す」
「仲間の訃報を受けても、その悲しみに耐えつつ、他の職責を果たす」
ってことも求められるはずですよね。
綱手が火影に就任したのは“木ノ葉崩し”の後なので、綱手は、「自分が先頭に立って、仲間や里を危険から守る」ってことよりは、どっちかというと「今生の別れを覚悟しつつ、仲間を危険な任務へ送り出す」「仲間の訃報を受けても、その悲しみに耐えつつ、他の職責を果たす」ってことのほうが多かったと思うのですよ。

振り返ってみると、「自来也VSペイン」の終盤での自来也の回想やモノローグといい、その後のナルトとイタチの会話といい、今回の綱手の立場といい、ここ半年くらいの間、直接的にも間接的にも、「ナルトは本当に、火影になる覚悟ができているのか?」「そもそも、火影に求められるのはどういうことなのか、ナルトにはわかっているのか?」ってことが問われ続けている気がします。
ただそれは主に読者に対して、であって、ナルト自身がそういう風に自問している様子はないようですが……ただ今後、サスケの動き次第で、ナルトもその問いに向かい合わねばならなくなるでしょうね。
そしてその時は、確実に近づきつつあると思われます。

あー、ここしばらくの『NARUTO』って、何をもって明るい材料とすればいいんでしょうか……。
WJ18号ではサスケに追いつけなかったナルトが泣き、WJ28号ではサスケが泣き、WJ28号ではサスケの回想シーンの中でイタチが泣き、そして今週の30号ではナルトが泣き、綱手も泣いていた……。
メインの人物たちがこんなにも毎週泣いていていいものなのか……と思う一方で、それでもストーリーが成り立ってしまい、毎週読まずにはいられないこの作品は、やっぱりすごいと思わざるを得ないのでした。

++++++++++++++++++++++++++++++
今週の遡及コーナー。
1年前(2007年)のWJ30号でのサブタイトルは「その眼…!!」でした。
デイダラが、“暁”への勧誘のためにやってきたイタチ、鬼鮫、サソリに初めて会った時に、イタチに幻術をかけられ、イタチの術に見入ってしまった回です。
(掲載巻は→『NARUTO 巻ノ39 (39) (ジャンプコミックス)』。この巻の最後に載ってます。)

2年前(2006年)のWJ30号でのサブタイトルは「忍び寄る脅威!!」でした。
アスマ班がカカシのお見舞いに来て、サイが自己紹介をし、その後「ナルト、サクラ、サイ、チョウジ、いの」の5人が「焼肉Q」へ行き、サイがいのを「美人さん」と呼んでサクラがキレ、一方、二位ユギト、飛段、角都が初登場した回です。
(掲載巻は→『NARUTO (巻ノ35)』。)

扉絵は、アスマがピンで煙草を吹かしている絵だったのですが、今思うと、「飛段、角都が初登場した回の扉絵が、アスマのピンだった」ってあたり、勘のいいお方は、もうこの時点で、アスマの身に起きることが予感できたりしたのでしょうか……(涙)。

3年前(2005年)のWJ30号でのサブタイトルは「チヨバアとサクラ」でした。
ガイ班の4人がそれぞれ自分のコピーである敵を相手に苦戦し、一方で、サクラがサソリの傀儡を拳で叩き壊した回です。



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WJ29号『NARUTO』第404話「“鷹”と“暁”」の感想。(その3)

鬼鮫が「…この世に尾獣は9匹います。今は7匹まで“暁”が集めてますから…あと2匹」と、マダラが「オレたちと“鷹”で残り2匹を手分けして狩る…それが我々の当面の目的だ」「ナルトは“暁”が狩る。“鷹”はもう一方を当たれ」と言ったのを読んで、

“暁”の“尾獣”集めの計画が、やっと再開されたかー!

と思いました。


「“暁”の“尾獣”集め計画」については、私は、約半年前の去年12月上旬に、

<だいたい、“暁”のメンバーって、表立って生き残ってるのは「イタチ、鬼鮫、ゼツ、ペイン、小南」だけなのに、「“八尾”の“人柱力”を狩る」ってノルマは誰が果たすことになってるんでしょうか。
巻ノ37の第332話で、二位ユギトが“二尾”を抜かれ終わった時、リーダー(多分)が「これで“二尾”も封印した…残りはあと3匹…」と言ってましたが、その後、鬼鮫が“四尾”の“人柱力”を捕獲した描写はありましたが、「“八尾”の“人柱力”が誰なのか」「“暁”はそれをもう発見してるのか」って、どこかに書かれてましたっけ?
トビ(=マダラ=ラスボス)はリーダー(=ペイン)に、巻ノ40の第364話で、「他のメンバーに残りの人柱力を急がせろ」という、非常に大雑把な指示を出しただけですし……。>


とか書いていたんですが、今読み返すと、何だか微妙にイライラしてるっぽい文体だなこれ(笑)。
フィクションの中の、しかも敵の組織のことなんだから、私がこんなに必死になる必要がどこにあるというのか。
うー、まるで統制の取れていない組織を見ると、他人事ながらイラつくのは、かつて私自身がそんな組織にいたせいなのかどうかは(だから『NARUTO』にかこつけて現実世界の仕事の愚痴はやめなさい(笑))。

(ちなみに、去年12月上旬に書いたその記事はこれ→WJ1号『NARUTO』第380話「その面影…!!」の感想。

ここでサスケは「ってことは…九尾はまだってことか」と言ってますが、サスケは作品世界中では、「昨日の午後」に、一瞬だけですが、ナルトには会ってるんですよね、「うっとおしい奴だ」とまで言ってたし。
もう忘れたのかサスケ……と思ったのですが、サスケは「“尾獣”を抜かれた“人柱力”は死ぬ」ってこと、知ってるのかな。
知っているんだとしたら、「ナルトは九尾を抱えている→そのナルトには(一瞬だが)昨日会った→ナルトが生きているということは、九尾はまだ抜かれていないらしい→残り2匹の中に、九尾が含まれているはずだ」という連想を辿ったのかも知れないが。
んで、「ナルトは九尾を抱えたまま、まだ強いままなのか、やっぱりうっとおしい奴だ」とか何とか、そんなことを思ったのか。

でもサスケって、“尾獣”に関してはもともと関心が薄そうだったしなあ……知らなかった可能性が高いよなあ……。
ナルトが九尾を抱えているということも、ついこの間(大蛇丸のアジトでナルトと再会した時)まで知らなかったらしいし、そもそも、「“尾獣”とは何なのか」ってこと自体、今週マダラに聞かされて初めて知ったような様子を見せているし。
ましてや「“暁”はどうして“尾獣”を集めているのか」ってことについてなんて、大してウェイトを置いてないように見えるんですが、このあたりはどうなんでしょう。
ナルトのほうは、自分の意志で、九尾と(一応は)決別したのに、サスケのほうは、九尾じゃないほうとはいえ、“尾獣”に近づきつつあるわけですね……あーこのあたりも、何だか皮肉だなあ……。

うーん、それにしても、第1部のサスケって、その考えや感情は、ナルトには伝わっていなくても読者にはわかるように描かれていましたが、第2部になってからは、読者にもわからないような描き方をされることが多くなってきましたよね。
サスケはどれだけ本気で、“尾獣”(多分“八尾”)を捕獲するつもりなんだろう。
もっと言うなら、「“暁”と手を組むこと」とか「“尾獣”を捕獲すること」とか「うちはを再興すること」とか「木ノ葉の里の上層部を殺すこと」とか、これだけバラバラな目的(又は手段)が、サスケの頭の中ではどう結び合わされているのか。
恐るべしマルチタスク脳。

ところで、サスケがやけに冷静に作戦会議を進めている様子に、何だか違和感があります……。
サスケには「木ノ葉の上層部が許せない」って気持ちももちろんあるんでしょうけど、それ以上に、「何か大きなことや困難なことに立ち向かっていなければ、自分を保てなくなる、自我が崩壊するのを止められなくなる」って感じがするんですけど……。


あと、今は、去年の34号の第363話「サスケの死…!!」で、マダラに(九尾は)お前が狩れ。リーダーとして失敗は許さん」と言われていたペインが今どこでどうしているのかが、若干気にかかるところです。
ペインが最後に登場したのも、去年の最後に発売されたWJ4・5号の第383話「最終章、そして…!!」だったから、もう半年も前のことだし。


さて、“尾獣”について、「尾が何本あるか(何の動物をかたどっているか)(“人柱力”は誰か)……捕獲したのは“暁”の誰だったか」という点に着目して、整理してみました。

一尾(狸)(我愛羅)……………………デイダラ
二尾(猫)(二位ユギト)………………飛段、角都
三尾(亀?)(人柱力なし)……………デイダラ、トビ
四尾(?)(名無しのおじいさん)……鬼鮫
五尾(?)(?)…………………………?
六尾(?)(?)…………………………?
七尾(?)(?)…………………………?
八尾(?)(?)…………………………捕獲まだ
九尾(狐)(うずまきナルト)…………捕獲まだ

けっこう「?」だらけだったのですが、これ、私が見落としているんでしょうか?(汗)
あと、デイダラって実は働き者だったんだなあ(笑)。

ちょっと引っかかるのは、去年WJ24号の第353話「“暁”集合…!!」で、イタチは、“四尾”の“人柱力”のおじいちゃんを捕獲したばかりの鬼鮫に、「今は“八尾”までを目立たず速やかに回収する方が賢い」と言っていたのですが、あれからまだ1日経っていないはずだというのに、あの後“暁”は、“五尾”“六尾”“七尾”をサクサク狩ったのか?

あの時点で“暁”側だってもう「ペイン、小南、ゼツ、イタチ、鬼鮫、デイダラ、トビ」しか残っていなかったし、この後はそれぞれ、かつての師や、実弟や、逆恨みしている相手と戦うため、又はそのサポートのため、忙しくなるはずなのに、“五尾”“六尾”“七尾”を捕獲している余裕なんてあったのだろうか。
手隙だったメンバーなんて、1人もいなかったはずなんだけど……このあたりについては、原作では全然描かれなかったので、何ともいえないのですが。

今後は、“八尾”は誰なのか、ってことが明かされて、サプライズになったりしないかな。


WJ29号『NARUTO』第404話「“鷹”と“暁”」の感想。(その2)に戻る

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今週の遡及コーナー。
1年前(2007年)のWJ29号でのサブタイトルは「追いつめるC2!!」でした。
サスケが“状態2”に変化し、手裏剣と、足場にした刀でデイダラに反撃し、形勢逆転した回です。
(掲載巻は→『NARUTO 巻ノ39 (39) (ジャンプコミックス)』。)

2年前(2006年)のWJ29号でのサブタイトルは「あだ名」でした。
サイがサクラを「ブス」呼ばわりしてサクラに殴られ、ナルトが巻き添えになり、その後この3人がカカシのお見舞いに行った回です。
(掲載巻は→『NARUTO (巻ノ35)』。)
カカシが右手に『イチャタク』を持って、ノースリーブ姿でベッドの上で上半身を起こしていた(衝撃の)扉絵の回でもあります(笑)。

完全にテレビアニメ化されているのは、今のところ、この回までですよね。(原作では、次の回ではもう飛段と角都が登場してるので。)
やっぱり、2年間くらい余裕を持ってくれてると、観ているこっちも何となくほっとできるというか何というか(笑)。

3年前(2005年)のWJ29号でのサブタイトルは「サソリの芸術…!!」でした。
デイダラとサソリが芸術談義を展開し、デイダラが我愛羅の亡骸を持って粘土鳥で飛び去り、カカシ班が「ナルト、カカシ」「サクラ、チヨバア」の2手に分かれた回です。
(掲載巻は→『NARUTO (巻ノ30)』。)



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WJ29号『NARUTO』第404話「“鷹”と“暁”」の感想。(その2)

さて、ナルトサイド。

私はもう数ヶ月前から、「ナルトは自来也の死を、いつ、誰から、どこで、どんな言い方で知らされるのか」ってことが心配だったのですが、今週号が「その時」だったか……。
カカシがナルトの部屋の窓を外から叩いて「五代目がお呼びだ。すぐ支度しろ」と言ったコマで、「あー、とうとう来たな」とは思ったけど……。
(それにしても、カカシが綱手を「五代目」と呼ぶって珍しいな。今までは「綱手様」と呼んでいたと思うのだが。)
この後、猫背気味でポケットに手を突っ込んだナルトのポーズが、何だか今までのカカシに似てるような気がしました。

ところで、ガマ吉はともかくとして、あの巨大なガマオヤビンことブン太があんな街なかにドーンと座っていても、道行く人々は平然としたもんですね。
一般人もいるとはいえ、流石は忍者の里だ。

自来也が「頭(かしら)」と呼んでいた蛙って、「フカサク」って名前なのか。
ナルトってば、このフカサクを「ジジイ仙人」呼ばわりでは、「大じじ様」のことなんてどう呼ぶんだろう。

あれ、そういえば、「姐(あね)さん」のほうはどうした?
ペインの死体を1体持って、フカサクより先に木ノ葉へ向けて発ったんじゃなかったでしたっけ?
運んだブツが死体だけに、木ノ葉病院あたりにいるのかな?

それから、綱手がこんなにはっきりと誰か(この場合はフカサク)に敬語を使って喋るのって、初めて見ました。
フカサクより確実に格下のブン太も、綱手のことを「綱手」って呼び捨てにしてるしな、“三忍”と、口寄せ動物とでは、動物のほうが格上なのだろうか。
考えてみたらナルトだって、ブン太を口寄せはできるものの、ナルトのほうが「子分」なんでしたよね(笑)。

そしてフカサクの口から、「自来也ちゃんが戦死した」という言葉が……。

作品世界の中では、ナルトは「昨日の昼過ぎ」に、同じ場所で、綱手から「大蛇丸が死んだ」と聞いたばかりなんですよね。
その後には、トゲトゲアロエヤローことゼツが「うちはイタチは死亡」と言うのを聞いてるし、今度は「自来也ちゃんが戦死した」ですよ……。

たった24時間の間に、ナルトは、「大蛇丸、イタチ、自来也」という、この重要人物3人の死を知らされているわけですよね。
ジャック・バウアーが大暴れ、もとい、大活躍する、「24」並みの急展開だったんですね。
こうも立て続けに重要人物が退場していっているとなれば、作品世界の中の人物であるナルトも流石に、「何か大きなことの、終わりの始まりの予感」を感じてるんじゃないでしょうか。

ナルトが「な…何言ってんだよ…」と言ったコマでは、ナルトの後ろ姿しか描かれてませんが、ナルトの表情を想像すると心が痛みます……(涙)。
WJ25号の「地獄の中で」のラストのコマでは、イタチを巡るかつての事情をマダラに聞かされたサスケが、「そんなのうそに決まってるだろ…」と言って茫然となっていましたが、ナルトもあんな感じの表情をしていたのか。


(あとこれ、先週の感想として書くべきだったかも知れませんが、ナルトはイタチとの邂逅のことを、「あん時イタチは何が言いたかったんだ? 何でオレに…」と訝ってはいるようですが、具体的に「イタチの奴、あのカラスで、オレに何をしたんだ?」とは全然思っていないのだろうか。
また、あの時あったことを、まだ誰にも話してないのだろうか。
カカシや綱手には言っておくべきだよな……。
イタチが、行きずりの気まぐれナルトにシたことによって、ナルトの体に何か重大な異変が起きているかも知れないし……とか書くと何だかいかがわしいですが、しょうがない、イタチ兄さん、本当にいかがわしげなことしたんだから(爆)。

ちなみに去年の5月、イタチ役の石川英郎は、自分のことを、「心はS、体はMの石川英郎です」と自己申告していました(笑)。
その言葉が収録されているCDはこれ→「ラジオDJCD NARUTO RADIO 疾風迅雷 其の一
そうかやっぱり「心はS」でなきゃ、あのイタチ兄さんを演じるのは難しいよなうむうむ。)



さて場面変わって、サスケサイド。
サスケのトップス、何で和風からファスナー使いの洋風にしたのかな、と思ったのですが、サスケはもう“状態2”になることがないから、つまり戦闘中に着脱しやすくあることを考えなくてもいいから、でしょうね。

「殺るのは上層部だ…それ以外は基本的に対象としない」と言うサスケに、鬼鮫が「やはり許せませんか? お兄さんを苦しめた上層部のことが……」とか何とか言うかと思ったんですが、言わなかったな。
鬼鮫はかつて、“木ノ葉崩し”の後の木ノ葉の里のことを「栄華を極めたあの里が…哀れだな」と言ったイタチに、「ガラにも無い…故郷にはやはり未練がありますか? アナタでも…」などと、ほんのちょっとからかうようなことを言っていたので、サスケにもそんなこと言うかと思ったんですが。

でもまあ、あの時のイタチは「いいや…まるで無いよ」と言葉で簡潔に答えてましたが、サスケだったら、無言のまま鬼鮫に“千鳥流し”をお見舞いしていそうだ(笑)。

でも真面目な話、サスケって、ずっとイタチの傍にいられた鬼鮫のことが、ちょっぴり羨ましかったりしないのかな……イタチと鬼鮫がツーマンセルを組んでいた(又は組まされていた)理由が何だったのかはわからなくても……。
確かサスケはイタチに去られたのは7歳か8歳の頃でしたが、鬼鮫ってもしかしたら、サスケがイタチと一緒に過ごしたのと同じくらいの時間を、イタチと過ごしていた可能性もあるんですしね。
まあイタチと鬼鮫がそれぞれいつ“暁”に入ったのかがわからないと、このあたりははっきりしないんですが。
でもサスケは本当は、鬼鮫に聞きたいことがいろいろあるんじゃないのかな……「オレのこと、イタチは何か言ってたか?」とか何とか、そういう感じで(ってこれ、サクラがナルトに「私のこと、サスケ君何て言ってた?」と聞いてたのと同じパターンじゃないか。恋する乙女かサスケは(笑))。


そうそう、サスケが“蛇”を“鷹”と改名したことについて、作品中の誰か、少しは言及してやってくれ(笑)。
“蛇”のことをちゃんと“蛇”と呼んであげていたのって、はっきり言って、『NARUTO』感想ブログをお書きの読者さんたちだけじゃなかったのか……あまりにも無関心すぎだ“蛇”の3人たち。
事業所だって、名称変更のための手続きって大変なんだぞ。

あー、でもそれを言うなら、数時間のうちに、サスケの目的が「うちはイタチを殺すこと」から「木ノ葉の上層部を殺すこと」へと激変していたことにも、誰も何にも言ってないな。
事業所だって、事業内容変更のための手続きって(以下略)。

あー、でも、今振り返ってみたら、私は去年の10月末頃、
<で、“蛇”の面子の目的を簡単にまとめると、サスケの目的は言うまでもなく「イタチを殺す」、香燐の目的は、(水月曰く)「サスケとずっと一緒にいたいだけ」、水月の目的は、(香燐曰く)「ただの刀集め」、重吾の目的は、自己申告で「(サスケが)どれほどの忍か見届け」る、ということだそうで。>
などと書いておりました。
メンバーそれぞれに、最初から確固たる目的があったから、リーダー(この場合はサスケ)の言うことがどう変わろうが、自分たちの組織に新しく誰が加わろうが、大した問題じゃないのかもな。

あー、それから、水月がサスケに「まあそのうち美味いフカヒレでも食べさしてあげるからさ」と言ってますが、この「フカヒレ」は当然鬼鮫のことなんでしょうが、鬼鮫はどう捌いても美味しくないと思うが(笑)。

“鷹”と“暁”が、“尾獣”捕獲作戦について会話しているシーンについての感想は先送りにするとして……。
今週のラストのコマでは、マダラがゼツに対して「何より…サスケを手懐けた」と言ってますが、あれって、あんなに「してやったり」みたいな言い方をするようなことじゃない気がするんですけど……。
「マダラの過去話も、まるっきりの嘘ではなかっただろうけど、サスケを引き込むために何かしらの演出や脚色はしていたはず」ってことくらい、読者はみんなわかってるだろうに。
あー、それでもやっぱり、「マダラ自身の口から、『サスケを抱き込もうとする意志がある』ということが語られた」ってことが重要なのか、まあそれはそうだけど。


さて次は、“尾獣”について、自分の頭の中の整理のためにちょこっとまとめてみよう。


WJ29号『NARUTO』第404話「“鷹”と“暁”」の感想。(その1)に戻る

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2周年!

今日(6月21日)は夏至(げし)でした。

んで今日は、このブログが始まって2周年記念の日でもあります。
(登録を始めたのは6月20日だったはずなのですが、登録に必要な入力が終わった時には日付が変わっていたので、やっぱり6月21日が開始日になるんだろうな。
自分の頭の中では「夏至の日が開始日」と記憶しておけばまあ忘れることはないだろう、程度に思うことにしています。)

いつも読んでくださる方々、ありがとうございます!
これからもよろしくお願いします!

ちなみに去年の今日、私はこんな記事(→はしかの流行ピークは過ぎたらしいが……。(その2))を書いていました。
1年前のこの記事の中でも書いているのですが、何で1周年記念の記事のネタが「はしか」だったんだ私……(笑)。




WJ29号『NARUTO』第404話「“鷹”と“暁”」の感想。(その1)

今週の「“鷹”と“暁”」というサブタイトルを見て、「鳥の種類と、1日の中の時間帯」の連想で、ヘーゲルの「ミネルバのフクロウは黄昏を飛ぶ」とか何とかいう格言を思い出しました。
「ミネルバ」とはローマ神話の知恵の女神(ギリシャ神話のアテナに相当)、「フクロウ」とはそのミネルバの象徴である鳥、「黄昏」とは秩序が失われ混沌とした時代のことだそうです。

「ミネルバのフクロウは黄昏を飛ぶ」ってこの言葉には解釈がいくつかあるそうで、「混沌とした時代には、本当に知恵ある者だけが生き延びる」とか、逆に「本当の知恵がどこかへ飛び去ってしまった結果、混沌とした時代が訪れる」とか、いろんな意味に取れるそうですが、確かに今の『NARUTO』ワールドは混沌としてますな……って、こういう思いついたを全部書かないと気が済まないから、私の記事ってダラダラ長いしアップは遅くなるんだよな……混沌としてるのは私の頭の中だ……。


さて、私は前の28号の感想の終わりのほうで、<この夏の劇場版では、波の国編で桃地再不斬を演じた石塚運昇が出演するそうですね!>などと書いていたのですが、今週の29号では、再不斬のエピソードを髣髴とさせるような言葉が多くてびっくりしました。
またしても、中途半端に予想が当たりました!
鬼鮫だって、去年12月上旬発売のWJ1号を最後に、しばらく出ていなかったのになあ。


では本編の感想をば。

「トビモード」から「マダラモード」へとガラッと口調を変え、マスクを外したトビを、鬼鮫は、「水影様…いやマダラさん」と呼んでいましたが……。
トビがマダラで万華鏡写輪眼使いで“暁”の黒幕で水影で、って、このあたりについてのことはもう複雑すぎて脳内がコンフューズしまくりなので、自力での分析や予想はあんまりしないでおいて、しばらくは人様のブログに助けてもらうことにします。
ただ、鬼鮫と再不斬のことではいろいろ引っかかったので、書いておこう。

連載開始から半年ちょいの頃、もう8年くらい前のことになりますか、確か第30話「お前の未来は…!!」で、カカシが再不斬に、
「お前の野望は大きすぎだ…」
「霧の国を抜け“抜け忍”となったお前の名はすぐの木葉にも伝えられたよ…」
「水影暗殺…そしてクーデタ−に失敗したお前は 数人の部下とともに野へ下った……と…」

と言ってましたが、これがガセネタでないとすれば、再不斬が暗殺した水影と、鬼鮫が今週「水影様…いやマダラさん」と呼びかけた水影は、別人だってことですよね?

再不斬も鬼鮫も、霧隠れの里から見れば抜け忍ですが、この2人、どっちが先に里を抜けたんだ?
鬼鮫のほうが再不斬より二つ年上なので、年長者を優先して、再不斬が鬼鮫に先を譲った?(里を抜けようとしている忍にそんな規範意識があるかどうかは知らないが。)

どっちにしろ、歴代水影のうち、1人は再不斬に暗殺されてるはずなんです。
ということは、
前々水影(=トビ=マダラ)が退任、前水影が就任→再不斬が前水影を暗殺し、里抜け→現水影が就任」なのか、それとも
「再不斬が前水影を暗殺し、里抜け→現水影(=トビ=マダラ)が就任」なのか。

私は前者のような気がするんですが……だって、「現水影=トビ=マダラ」だとしたら、就任したのはうちは一族皆殺しの後だろうし、その就任に際しては、流石に素顔を晒さなくてはならないだろうし、そうなれば、もう年齢的に言って、適任なのかどうかは絶対疑問視されただろうし、第一、里長同士は交流があるんだから、「現水影=うちはの創始者マダラ」だとしたら、つい3年前まで生きていた三代目火影がそれを知らないってのは考えにくいし……。

あれ、そうなると、鬼鮫が今週「水影様」って呼んでたのは、「前々水影」ってことになっちゃうか。
そうなると、今週のマダラの「一番身近なお前を騙していて済まなかった」という言葉の辻褄が合わなくなるんだよな。
この言い方って、「つい最近まで、マダラと鬼鮫は、“暁”以外の場(まあ霧隠れの里でしょうけど)で親しかった」って感じがするし。

鬼鮫のほうも、目の前に現れたのが「前々水影」だったら、その顔を見て、咄嗟に「水影様」という、「現職の者に呼びかけている」って感じの言葉は出てくるものなのか……。

それに、「マダラが水影に就任したのは、うちは一族皆殺しの後」とも限らないんだよな……(だからこういう堂々巡りになるから、自力で考えるのはやめようと思ったんだ(笑))。

あー、あと、このシーンに関してもう一つだけ。
こう言っちゃ何ですが、トビ=マダラの素顔を見て驚く鬼鮫の表情が、思いのほか人間らしかったのが、ちょっとした驚きでした(笑)。


ちょっと横道に逸れますが、「『NARUTO』ワールドにおいて、組織のトップはどう決められるのか」ってことを考えてみたのですが……。
WJ24号の「すべての始まり!!」でのマダラの説明によれば、かつて「国」が忍の「一族」を雇って小競り合いを続けていた時代があったそうですから、水の国がうちはを雇ったこともあり得ますよね。
だから、「どの時点かにおいて、霧隠れの里の長は、うちはの者である(又はあった)」ってことは、別に「鬼鮫だけが知っている秘密」ってことではないんでしょうね。
(秘密だとしたら、「里長(又は里長であった者)が“暁”の黒幕を務めている」ってことのほうだよな。)
木ノ葉の里を見ても、里長はあくまで「里」の中で継承されるものであって、「一族」の中で世襲されるものではないんですよね。
うちは一族の血の濃さというか血へのこだわりというか、そういうものを見続けていると、忘れそうになるんですが。


ふと思い出したのですが、確か“砂の三姉弟”の父親である四代目風影も暗殺されたし、その前の三代目風影も、「失踪して遺体が発見されなかった」、つまり暗殺されたも同然だったんですよね。
里長たち、ちょっとばかり暗殺され過ぎじゃありませんか。
本当に大丈夫なのか忍五大国は。

うーん、それとも、隠れ里の里長ともなれば、「畳の上では死ねない」くらいの覚悟は当然で、もっと言うなら、「自分が里長のまま死ぬ時は、それは戦死する時暗殺される時だ」くらい思わなきゃ、務まらないのかもな。
綱手も、『NARUTO (巻ノ27)』の第238話「旅立ちの日!!」(第1部の最終話)で、1人でソファーに座り、歴代火影たちの写真を見上げて、微かな笑顔で「…火影は大変だな…」と呟くシーンがありますが、綱手はあの時きっと、「畳の上では死ねない覚悟」を、改めて決めたんだと思う。
あのシーン、密かに私の好きなシーンでもあるんです。

ありゃ、「トビがマダラで万華鏡写輪眼使いで“暁”の黒幕で水影で」ってことについてはあんまり深く考えないつもりが、結局1回分の記事になっちゃった。
次は「ナルトサイド」「サスケサイド」について書くぞ!


WJ29号『NARUTO』第404話「“鷹”と“暁”」の感想。(その2)に進む



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満月に祈る。

今日(6月19日)は満月でした。

東北北陸では、梅雨入りしたそうで……岩手・宮城内陸地震の被災地は大丈夫でしょうか。
私の出身地もあのあたりに近いので、もしかしたら知り合いや、そのまた知り合いが被災地に住んでいるかも知れない……大丈夫だったかなあ……。

被災地が、早くもとの姿を取り戻しますように。
被災者の方々の心と体の健康が守られますように。




To be or to do?

WJ28号「涙」の感想を書くに当たって、『NARUTO (巻ノ1)』の「あの時…泣いてた…オレの…」の部分を読み返してみたのですが、正直なところ、本当に読み耽ってしまったのは、別の部分でした。
それは、他でもない第1話「うずまきナルト!!」です。

今更いらないとは思いますが、大急ぎで「おさらい」的なことを書きますと……。
『NARUTO』の第1話「うずまきナルト!!」より前、ナルトは里の中で、1人の子供や人間としてではなく、「九尾を抱え込んだ子」としてばかり見られ、「化け狐」と同一視され、冷たい視線に晒され続けていました。
存在そのもの、いわば「being」が否定されていたわけです。
その「being」を否定されていたナルトが、イルカという人物によって、「being」を肯定され、認められた――『NARUTO』という物語がそこから始まったのは、この作品の読者にとっては常識中の常識、基本中の基本、アルファベットのABC、イロハのイです。

そして約8年8ヶ月、400話以上にわたって、その路線も視点も、大きく変わることはなかったように思います。
(オフィシャルデータブックでも、原作者の岸本氏はそんな感じのことを話していた気がします。
ずいぶん前のインタビューで、でしたけどね。
早く次のデータブック出ないかなあ。)

ところがWJ28号では、ほんのちょっと風向きが変わった気がしました。
「この作品に、今までとは違う視点が持ち込まれたな」「ナルトは、今までとは違う方向から切り込まれたな」と思ったのです。

それは、イタチがナルトに、「お前には何ができて何ができないのか」「お前はどう行動するつもりだ」と真正面から問うているところです。
重要なのは「being」じゃなく「doing」だ、というポイントがはっきり打ち出されているところです。

イタチがナルトに言った「…子供だな」という言葉には、「もうお前は、存在そのものが認められ愛されるだけの者じゃない」「自分の気持ちのままに突っ走るだけではなく、里のために何をするつもりなのか、あるいは何をしないつもりなのか、それが問われる、責任のある立場を引き受けられるのか、その覚悟はできているのか?」という意味が込められているように思えるのです。

これを思った時、新生カカシ班が天地橋へ向かう途上で、ヤマトがナルトとサクラに言った、「君達はもう守られるだけの見習い忍者じゃない」という、あの言葉を思い出しもしました。
でも正直言うと、ヤマトには悪いけど、あの時はまだ「あああこのつらいタイミングとシチュエーションで、それを言わんでも…!」と思ったんですよね(笑)。
あの任務はもともと、隊長はナルトたちと馴染みの深いカカシじゃなかったし、同世代とはいえ正体不明なメンバー(サイのことです)もいたし、「サスケについての情報が得られるかも」という意味でナルトもサクラも最初からナーバスになっていたし、それに第一、ナルトだってサクラだって、まだまだカカシを含む大人たちを頼りたい年齢のはずだし。

でも今思えば、ヤマトがあれを言ったタイミングも、ほんのちょっと前倒しだっただけかもな。
すまんヤマト(って私、このブログでは、ヤマトをけなしては謝り、けなしては謝りを繰り返しているような気がする(笑))。


さて「doing」「being」の話に戻りますが……。
「doing」じゃなく「being」を尊重しよう、ってことは、教育関係の本や宗教の本なんかには、よく書かれていますよね。
でも、「being」ではなく「doing」を重視しても、それを単なる打算だとか計算高さだとかいえないときも、あると思うのです。
例えば……。

親から見て自分の子供「存在していてくれるだけでいい」という存在でしょうが、その子供の結婚相手となれば、「存在していてくれるだけでいい」とはいきませんよね。
どうしたって「何ができるのか、できないのか」「何を持っているのか、いないのか」ってことを、厳しくチェックしてしまうはず。
「自分にとって、自分自身以上に大切な何か」を託す相手となれば、「doing」のほうだって気になって当然ですよね。
私は「イタチはナルトに木ノ葉の里の未来を託した」と思っているので、イタチがナルトに対して「お前はどう行動するつもりだ」と尋ねたのって、それに近いものを感じてしまうのです。


あー、「子供の結婚相手」ってこれ、「里=自分の子供」と見立てて、例え話としてのみ書いていたつもりでしたが、これを「サスケ=年頃の女の子、ナルト=その女の子の恋人、イタチ=女の子の父親」と変換しても、そうそう違和感ないかもな(笑)。
だって、「サスケはまだ純粋だ。簡単に何色にも染まる」って、年頃の娘を持つ父親の台詞みたいじゃないですか?
あるいは、「結婚披露宴で、新婦の父親が新郎に、涙声で呼びかけているスピーチ」みたいな感じが(笑)。

そういえば、私の叔父も昔、娘(つまり私の従妹)について、雑談の中で、そんなことを言っていました。
ただしその時、その従妹はまだ年頃とは言えず、っていうかまだゼロ歳の赤ん坊だったのですが(笑)、父親って娘に対しては、そういうことを思うものらしいですね(ってどんどん話が脱線する(笑))。


でも、イタチが正面切ってナルトに「doing」について問うた、とはいっても、だからこの漫画が「doing」一辺倒になるとか、「doing」重視になるとかは思いませんが。
ナルトがイタチに言った「まっすぐ自分の言葉は曲げねェ。それがオレの忍道だ」というあの言葉は、ナルトの「being」そのものを表す言葉ですし、あの言葉を聞いたイタチが、その言葉を否定することなく、微かに笑って、力を分けてやったというあたりは、イタチもとりあえずナルトの「being」には太鼓判を押したということなんでしょう。
「doing」が重要だとはいっても、やっぱり「being」あっての「doing」ですしね。

まあイタチの場合、「太鼓判を押す」とは、「問答無用で、相手の口に、カラスをズボッと突っ込む」ってことのようですが(笑)。

何にしても、第1話で、イルカがミズキに対して、ナルトのことを「あいつは木ノ葉隠れの里の……うずまきナルトだ」と言い切ったあの言葉は、こんなにも重いものだったんだなあ、と、改めて思い返しているところです。